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陶器が7で磁器が3

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
keian 2009-6-21 0:55
土曜日は、一茂君とのトークです。
今、京都だそうです。今週は、懐石の器についてです。
懐石料理というのは、本来はご馳走を食べる目的ではなく、誠意と感謝を表現する目的で
一定の作法のもとで。主客とともに礼節をつくすことであります。
簡単にいってしまえば、ひと椀のお茶を飲むことが主であって、料理は従なんです。
ひと椀のお茶をおいしくという配慮から、すべて成り立っているといってもいいかもしれません。
なんで、つかわれる器が、陶器が7であり、磁器が3なの?
という貴方の質問に答えるために、以前に懐石にこっていて、通っていた、<小椋>という店のノートをひっぱりだしてきました。店主の小椋正親氏は、私と同じ年で、本当に
極めたというか、極めたいというひとだったんです。私はこの方から、<南方録>をひもとくことも学んだし、彼の薦めとあれば、分不相応の器も喜んでもとめました。器をつかうことよりも、器を手に入れるカネをつかうことが、また、そのために働く、学ぶということが、快感でしたね。もう、なりふりかまっていませんでした。
でも、なりふりかまわないというのは、決して美徳ではなかったと、最近担って思うのです。礼節ということで成立する懐石です。相手の器に対する礼節を思ったら、なりふりもかまわなくてはわからないこともあるのです。

陶器は、つちのもので、やわらかくて、かけやすい。
磁器は、いしのもので、かたくて、かけにくい。
これを、頭においてください。
器をのせるのは、折敷といわれる、足のつかないお膳です。
テーブルなんてものはないのです。双方でお膳の受け渡しがあってすすみます。折敷は、真、行、草の位によってことなりますが、立派な塗物―漆器です。
不注意で傷がつきます。大切に扱わなくてはなりませんし、大切に扱われてつかいこんだもの、つまり、水をくぐったものほど、本当に美しいのです。
また、お茶を最後にいただくにしても、たなごごろにうけるでしょう。
このときも、陶器のものほど、つかいこんだ美しさが評価されるような気がします。
こういったものは、時代が進んでも、食洗機にかけては洗えないでしょう。
いってみれば、へそまがりの美学かな?
そこから、境地をひらくということかな?
好きで料理の道をえらんだのですから、、苦労してあたりまえ。
したごしらえから、仕入れまで、なんでこんなことまでせなんやろと迷うと、小椋正親氏を思い出します。
 
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